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素晴らしき日々 ~不連続存在~ 通常版素晴らしき日々 ~不連続存在~ 通常版
(2010/05/11)
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購入してから約数ヶ月経ちましたが、やっとフルコンプしたのでこの感動が覚めない内に感想を書いておこうかなと。ただ正直なところ、どんなに言葉を尽くしたところでこの作品の全てを語り尽くせるとは到底思っていないので、その辺りは「伝えたい部分のほんの少しでも伝わればいいかな」というつもりで書いています。あと、ネタバレありますので、未プレイの方は出来るだけ読まないようお願いします。

『素晴らしき日々』を終えてまず感じたことは、とにかく“幸福のための物語”だったんだなというのが率直な感想で、むしろこの作品の多くの割合をそうしたテーマ性が占めていたと言っても過言ではないのだと思います。けれど、この作品はその一方で“幸福”と表裏一体である“絶望”をもしっかりと描き切るわけで、特に3章 「Looking-glass Insects」 におけるトゥルーENDはまさに地獄絵図そのもの。読んでいて気分が悪くなることなんて当然のようにあったし、3章を終えた時にはそれこそ辛さしか残らなかったのも事実です。

ただ、あの終わり方は彼女自身が 「優しさ」 と 「強さ」 という武器を手に取り、戦うか否かという一つの選択肢を決めて歩んだ世界線なわけで、そうして選んだ彼女の運命が“幸福”か“絶望”かに枝分かれしていく結末は見事な両極端である反面、それって凄く伝えたいことが一貫していたなと感じるエピソードでもあったとは思うんです。だから、まあようはその差異があってこその物語の重みだとは感じますし、絶望を描くからこそ際立つ希望のような存在というのは確かにあるわけで、まさにそういった人生における表裏一体はこの作品の本質でもあったのだと思います。


『素晴らしき日々』における死生観と幸福論


そもそも、この作品って「世界は“人(ひと)一人”そのものの世界である」という考え方が基盤になっていたと思うんです。簡単に言い換えてしまうと「人って、感じていること、想っていることの全てを寸分違わぬまま第二者以降と共有することはできないよね」っていう思考回路で、もっと平たく言えば「あなたが何を考えているのかなんて正確にはわからない」っていう断絶的な思考がこの作品には根付いているんじゃないかってこと。そして、その最たる象徴が間宮卓司と高島ざくろにおける自己完結=自殺でもあったのだと私は思います。

それはつまり、世界(個々人)は決して交わらない(理解し合えない)からこそ、その全てを遠ざけるという閉鎖的な視点。何より、それ故の“死=孤独”こそを彼らは素晴らしき日々に至るための足掛けだと言い放つわけで、つまり“死は救い”であると彼らは考えたのだと思います。確かに物語において“死”が救いになるということは度々見受けられる物語の到達点でもありますし、傍から観れば無残な結末であったとしても、本人、或いは本人間同士の気持ち次第では“幸福であった”とその結末を結論づけることは十分に在り得ることなのだとも思います。


けれど、それって歩むことを諦めずただひたすらに前へと進んだ結果としての“死”によってもたらされる考え方であるはずで、それを体言していたのが2章「It's my own Invention」における間宮卓司と橘希実香の死であったはずなんです。それにも関わらず、もし仮に闇に落ちたままの間宮卓司と、世界の全てを切り離し、在りもしない空想に絡めとられながら迎えた高島ざくろの死を救い(幸福)であると言うのであれば、私はきっとそれをどうしたって否定してしまうと思います。だって、あの日の彼らは、この作品における最大テーマであるはずの『幸福に生きよ!』という、そのたった一つの言葉さえ理解しているとは余り思えないからです。


もちろん、あんな醜悪な日々を強制的に送らされていた高島ざくろに対し、そんな言葉を投げ掛けてしまうのは余りに無慈悲なことなのかも知れません。それは自覚しています。でも、じゃあ視点を変えて、懸命にあの坂道を登り続けた皆守や水上由岐、間宮羽咲のその背中を観てあなたは何も感じなかったのですか?と聞かれれば、そのことにだって私は全力できっと首を横に振ると思います。

世界を人(ひと)一人だけのものであるとするならば、この世界には人の数だけ世界が存在することになるわけで、では仮にそれらを要らぬものとして排除することが果たして正解なのかどうか。いや、そうじゃないはずです。その世界をもう一つの世界として受け入れること、相手を一人の人間として受け入れることで、確かに世界は交わらずともそれは重なり、想いが届く奇跡だってあるのだと。

またそうして全てを認識すること、受け止めることというのは、それだけで“乗り越えること”にすらも繋がっていくのだとも思うんです。それは誰か大切な人の死であったり、想いへの決別であったりと、そういった“絶望的な状況”こそがその切欠として存在すると同時に、それこそが素晴らしき日々という“幸福的な存在”に生まれ変わるのではないでしょうか。

もう決して呼び起こされることもないと思われた皆守の人格が再度浮上したことの意味と意義だってきっとそこにこそあるはずで、「ピンチをチャンスに変えてこそ、ヒーローだから」という彼の言葉はまさにこの作品が描きたかった幸福への架け橋を体言しているのだと思います。


『素晴らしき日々』という不連続存在とその連続性


そして、だからこそ示されるのは『素晴らしき日々』という言葉の重さです。それは決して幸福な日々が続くという意味ではなく、絶望も、辛さも、醜さも、楽しさも、喜びも、愛情も、その全ての連続しない感情が連続的に存在し、重なり合うことで始めて「人生とは素晴らしい」と謳歌することが出来るのだということ。

故に、だからこそそれを全うしたならば、その感情の変遷に少しでも触れることが出来たのならば、その先にあるものが例え“死”という名の終わりであろうとも人は幸福であったと声高に叫ぶことができるのではないでしょうか。

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さあ、取れ、取るがいい!だがな、貴様たちがいくら騒いでも、

あの世へ、俺が持って行くものが一つある!

皺一つ、染み一つつけないままで!

それはな、わたしの……心意気だ!

これは、『素晴らしき日々』の作中においても引用された『シラノ・ド・ベルジュラック』における一説です。

たとえ“死”を目前にしても、それは恐怖足りえず、ただそこに残るのは“心意気”という名の素晴らしき日々。語り得ぬもの(≒死)には沈黙を。坂道の向こう側は見えずとも、ただただ今を生き登り続ければ、いつの日にかその坂道はなんてことはないただの坂道。そうして振り返る日々によって世界は幸福に満たされる。

そんなポエム染みた言葉をこの作品に対して抱いた感想としてこの話は締めさせて頂こうとと思います。まさに怪作であり、名作であり、言葉一つでは表現できない芯に重く残る素晴らしい作品でした。

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